『プロミシング・ヤング・ウーマン』ライムスター宇多丸氏絶賛!素直に、ヤバいです。【あらすじ感想若干ネタバレビュー】
きゃんどぅです。
今回は、アカデミー賞で脚本賞に輝いた『プロミシング・ヤング・ウーマン』をレビューしていきます!
ちなみに、ストーリーの詳細なネタバレはせず、あくまで感想レビューです。
作品情報
題名『プロミシング・ヤング・ウーマン』
監督:エメラルド・フェネル
脚本:エメラルド・フェネル
製作:エメラルド・フェネル、マーゴット・ロビーなど
出演:キャリー・マリガン、アリソン・ブリー、クランシー・ブラウンなど
音楽:アンソニー・ウィリス
配給:フォーカス・フィーチャーズ(米国)
PARCO(日本)
公開日:2020年12月25日(米国)
2021年7月16日(日本)
上映時間:113分
↓予告編はこちら
ザックリ評価
★★★★★(星5つ中5つ)
詳細評価
・ストーリー 85/100点
・映像 95/100点
・音楽 100/100点
・メッセージ性 100/100点
・記事文字数 7200字
・お酒は 20歳になってから
あらすじ
主人公のキャシーは今年で30歳の子供部屋おばさん。友達もいなければ彼氏もなし、仕事は薄給のクソなコーヒーショップ店員。そんな彼女は夜な夜なクラブで酔いつぶれた姿を見せ、そこにホイホイとやってきた男に誘われ家に行き、手を出してきた男を「理解らせ」ていた。狩った男の数が記されたノートに今日も名前と線を刻んでいくキャシー。しかしなぜそんなことをするのか?
実は彼女、親友のニーナが遭った「レイプ事件」の影響で医大を中退している。それからは親友を傷つけた男という生物を憎み、小さな復讐の日々を送っているというわけだ。
そんなある日、コーヒーショップにライアンという男がやってくる。彼は大学時代の同級生で、学生の頃からキャシーにひそかな恋心を抱いていたのだ。キャシーもDANDAN心ひかれていき、二人の仲は深まっていく。ある時、大学時代の友人とまだ親交があると言うライアンに、キャシーの顔が曇る。彼の友人アルこそ、親友・ニーナの人生を壊した男だったのだ――。
ネタバレ無し/未見向け感想
プロミシング・ヤング・ウーマン=前途有望な女性
これを読んでいるあなたは男性でしょうか、女性でしょうか。
男性であれば、以下の質問にお答えください。
・「お酒の勢い」で何かやらかしました。何のせい?
A.お酒、雰囲気のせい
B.若気の至りのせい
C.全部俺が悪いんだ……。
AとBを選んだあなたは復讐される対象者です。Cのあなたはおめでとうございます、エレンポイント1000点。
・お酒飲んで「お持ち帰り」したエピソードを友達から聞きました。どう反応する?
A.へぇ~やるじゃん!うらやましい……
B.おい!相手が望んでないかもしれないのに酷いだろ!!
多分98%くらいの人がAの反応になると思う。正直、僕もそう言う。でも今作、そんな男たちが敵の映画なんです。
「え!だってそう思うのが男として普通じゃない?」
そうだよね、普通だよね。今作はそんな性観念が「普通」の人の頭をぶん殴ってきます。僕もぶん殴られました。
では、女性の方はどうかというと。
「男って(性的な意味で)バカだよねーww」とか、
「酔った感じ出せばすぐヤれるわww」
みたいなことを言ってきた、もしくは実際にやってきた人。あなたも加害者側になります。他人事じゃないよ、やったね。
で、そのお酒で未来つぶしていいのか?
お前の未来じゃねえよ、被害者の未来だよ。「レイプじゃないんだからいいじゃん、お酒って怖いよね」と言って逃げられるわけじゃないからね?
相手の負う傷の痛みはあなたにはわからないよね。あなただけではなく、皆の未来は前途有望なんだよ。今作でいえば、キャシーとニーナは前途有望だったんだよ、と。
復讐は何も生まないとは言うし、事実ではあるんだけど、未来をつぶした責任はしっかりと取れな。
……と、ここまで強くはないにしろ、こういうニュアンスのメッセージが『プロミシング・ヤング・ウーマン』というタイトルには込められている。何とも皮肉だァ……。
ポップな説教から目をそらすな
さてダラダラと前置きが長くなったけども、ここまで読むと「説教くせえ映画なんだな!?」と思われるかもしれない。申し訳ないが、それは僕の書き方が下手なだけです。というか、説教部分を抽出しただけ。
本編はめちゃくちゃポップで、説教臭さを感じない。なんならめっちゃくちゃ面白い。
しかも「この映画が正解なのだ!反省しろ!」などと思想を強要するわけでもなく、あくまでこちらに自省を促させる上手い作りになっている。
そこら辺のバランス感覚が、昨今映画界に押し付けられがちなポリコレ思想とは少し違う、なんならそのポリコレ問題さえも上から殴りつけるようなパワーを感じさせる。この映画の称えられるべき点はここにあると思う。
女性の性的搾取やスタッフ・キャスト間のセクハラ問題に始まり、人種問題やジェンダーに関する事柄など、昨今の映画業界ではとにかくポリコレ(政治的正しさ)を重要視する方向にある。
しかしいまだ女性とのラブシーンがもてはやされたり、酒に酔った勢いで行われる下ネタなどの「ホモソーシャルジョーク」がウケている現状に、この作品は「何分かったつもりになってんの?」と痛烈な批判を投げかけた。
女は強い!って言っとけばフェミニズムなのか?白人キャラを黒人キャラにすりゃあええんか?違うよね、被害者側(今回でいえば女性側)の気持ちを理解してもらうのが本当の正しさだよね、っていう。
映画業界が発するキレイゴトに、直接的ではないにしろ疑問を投げかけるこの映画を観て、ポリコレという問題が一つ上の段階に進んだんじゃないかと思った。
ではこの作品で言われていることが正しいのか?というとそうでもない。別に主人公が正しい人ってわけでもないし、劇中でも「いやそこまでするべきではないじゃん……」と言われちゃうようなことをしていく。
さらに、復讐される側の人間にいわゆる「悪い奴」はいない。誰かをレイプしたとか殺したとか、そんな分かりやすく許されないことをした者は出てこない。
冒頭に書いたように、お酒の勢いとか相手が少し乗り気だったからとか、そういう理由でやっちゃうようなある意味「普通の人」しかいないのである。
だからこそ、この映画を観る僕たちにとっても他人事ではいられないし、過去に思い当たる節もいくつか見つかるはずだ。
「僕はお酒が入っても手を出したりしないよ!良い人だろ!?」
そんな普通の良い人も逃がさない。じゃあ友達が手を出したらどうだ?「そのセックス、本当に相手が望んだことなのか?」って聞けるか?それは判断力が鈍っているだけで本当はやりたくもなかったのでは?乗り気に見えるのは酒の効果だろ?それで相手は傷つかないとでも思ってんのか?
野暮なこと言うなよと、『友達ノリ』に流されて言えないでしょう。ならあんたも同罪だ。相手からしたらたまったもんじゃないぜ、いっぺん味わえこの野郎。
そんなメッセージがポップな音楽と演出に乗って流れ込んでくる。最高にクールでいて、かつ苦しいほど平等に固定観念を貫いていく。
暴力は映さない、けど隠さない
そしてすごいのが、上記のような内容にもかかわらず、劇中において直接的な暴力シーンは一か所を除いて全くないところだ。
その一か所は目を背けたくなるし、大変不快なものである。
しかしその残酷さはこの作品に必要不可欠なものであり、この不快さこそ鑑賞者の脳に作品を刻み付けるナイフとなる。
そして強い不快感があるからこそ、決して暴力描写を娯楽として消費しない媚びなさ、セカンドレイプ的な不快感は与えないという誠実さをこの映画から感じられるのである。
暴力を真っ向から否定し、あくまでスタンスを崩さない制作側の姿勢は、そのままキャシーというキャラクターに落とし込まれている。だから主人公に感情移入できなくても、その生き方を否定する隙はないし、彼女の一切の行動に対する説得力がこれ以上ないほど強まっているのである。
さて、ここまで褒めの意見ばかり書いてきたが、だからと言って全員が見るべきとは思わない。
暴力シーンがないとはいえ、そういった事柄を想起させる部分は数多くあり、性的な強要、もしくは痴漢など、関連する経験を過去にした人がフラッシュバックを起こす可能性も十分にあるからだ。
そのような方でなおめちゃくちゃ観たいという方は、少しの覚悟を持って観てもらいたい。「なんだ大げさじゃん」と思えるなら幸せなことでございます。
ネタバレなしのまとめ
総じて、今作はよくある復讐ものとは一線を画す、面白さとメッセージ性を圧倒的な映像センスで閉じ込めた2時間の暴力である。観ている僕らは頭を直接殴られたように感じ、この作品を絶対に自分事として考えさせられるし、考えなければならない。
細かな内容を語ることなく魅力を伝えることが上手くできず歯がゆいので、おまいら早く観てください。それか配信が始まったらすぐに観ろ。
以下、印象に残ったシーン。
・世界一楽しそうじゃない朝帰り。その手に滴るのはケチャップ?それとも……
・厚い化粧に派手な服装=セックスOK?違うよなぁ!?
・キャシー、コカもいけるクチ
・ストⅡのボーナスステージ
・その動画何が映ってるの!?気になった時点で負けですかそうですか……
・デッドバイデイライト
そしてこの作品、ライムスター宇多丸アトロクの「ムービーウォッチメン」にて大絶賛を受けている。既に今年ベストと豪語しているけれども、全く大げさではないと思う。
(聴取後追記)もう僕、言葉の表現とか観点でめちゃくちゃ宇多丸さんから影響受けてるんだなって……。
ちなみに、鑑賞後マジで酸欠状態で動けませんでした。完全ノックアウトです、あざっした。
ネタバレ含む/鑑賞者向け感想
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男のノリが悪い意味でリアル
ライアンを許した僕も同罪です。
終盤にライアンが警察からキャシーの行き先を聞かれたときのあの間!!!リアルすぎて僕自身もどう答えようかな~って考えちゃったよ……。
まあ結果はライアンと一緒だったけどね!友達のことは言えねえよ!でも何だこの感情は!ごめんなさい!!
この映画のニクイ部分、「キャシーに感情移入しづらい」ことなんだよね。ニーナ本人がやるならまだしも、キャシーがやるにしてはやりすぎって感じちゃうところあるし、そもそも大学辞めて人生棒に振ったのもキャシー自身の選択だよね、って思えちゃう。
でも圧倒的に人の気持ちとして正しいのはキャシーであり、アルたちに対して少しでも許しの感情が生まれてしまう自分に気が付いたときは嫌悪感すら抱いてしまった。
そして鑑賞以前と以後で、男社会という閉鎖的であり同時にオープンなコミュニティの特異性に嫌でも気付かされた。
どんなに良くないことであっても、内輪の中で「面白い」と思えれば正当化されてしまう異常さ。女性に対して支配的な思いがないとしても、半ば無意識のうちに「弱い女性」を求めている危うさ。
僕が男として育ってきたからか、それとも男社会という文化がこの世界の基盤となっているからかは分からないが、いつの間にか面白さや相手の弱さに言い訳して行動している部分が僕にあることは確かだ。
人生を楽しむことは正しいが、その途中で誰かを傷つけることは正しくない。だが傷つけたことに対して自覚を持ち、罪を贖おうとするのは正しい。
正しいことがすべてではないが、少なくとも現状の社会における男社会の常識が正されるべきことであるのは確かだと思う。
しかしそれでも、男である限りこの映画を観ていて完全にキャシー側に立って観ることは難しい。
観ているだけでは事件の詳細もわからないし、男としてはアルたちの気持ちをわかっちゃう……しかし男側が悪いことも明白なわけで、板挟みになった自分に対しての言い訳をしてしまう。
そう思わされた時点でこの映画のニクイ部分にまんまとハマっているんだけど、だからこそこの映画を観たことに意味が生まれたとも思う。
ここに関しては是非女性側の意見も聞いてみたい。『ミッドサマー』のように、性別による見方が全く異なると思うから。
ただ、めちゃくちゃやるせない部分として、キャシーが最終的に男たちに復讐を果たす(事件を明るみに出す)には、自分が殺されることが必要だったってことだよね……。
ようやくアルたちに痛い目を見せられたのに、当のキャシーとニーナは確かめられないっていう……現状、ここまでしないと真に裁きを与えることができないという示唆は、何ともスッキリしない点だなあと。あんなにスッキリとしたエンディングなのに。
チャプターⅢから考えるいじめ問題
さて映画を振り返ってみると、劇中最も印象深かったシークエンスはグリーン弁護士の部分、Ⅲだった。
ニーナの告訴を取り下げさせてアルから報酬金を上乗せしてもらっていた男の懺悔パートだ。当時は私欲のために誰かの傷を無視しており、その行為は自分一人の選択で出来た。しかしその贖罪は一人でできなくて、孤独で抱え込んでいるうちに精神を病んでしまった。
そんな彼をキャシーは許すのだが、その理由が「ニーナを覚えていたから」であったことは非常に印象的だった。
それでグリーンは救われるし、同時にキャシーも「そうか、私は誰かにニーナを覚えていてほしかっただけなんだ」と安心する。
その安堵はすぐに崩れることになるのだが、このシークエンスがあるからこそ、キャシーの復讐がキャシーの人生にとって無意味であり、彼女が彼女自身の人生を歩んでいいという赦しを得るのである。その後の復讐は、あくまでニーナとして行われる。
現実においても、この「覚えていてほしい」という願望からくる怒りはありふれている。
この部分に関してはいじめが最も顕著である。映画でも描かれたように被害者側は傷を負い、その傷の痛みのせいでいじめられたことを忘れることはない。
反面、加害者にとっては楽しかったうちの事故、場の雰囲気が生んだ偶然としかとらえられず、ずっと覚えていられる理由なんてないため、そこに認識の差が生まれる。
だから、被害者からしたら加害者に対して「自分と同じ傷を抱えてほしい、だから自分にしたことを覚えて罪を抱えてほしい」という思いとなり、前に進めない。
一方それを言われた加害者もしくは周りの人々は、「そんな昔のこと言ったってしょうがないじゃん!傷は癒して忘れようぜ」と(たいていの場合)思うのだ。
両方とも「自分と相手が同じ状態になってほしい」と思っているのだが、そのベクトルはあまりに違う。前者は昔の記憶を引きずってほしいというマイナス方向、後者は今を生きてほしいと思うプラス方向なのだ。
人間的な気持ちとして、前者の気持ちを無碍に出来る人はいないだろう。その傷は容易く人生を狂わせるし、負ったダメージがフェアじゃないからだ。
だが世間的な正しさはどうかというと、残念ながら後者の方が支持される。そちらの方がポジティブだし、残酷なことに本当に「昔のことを言ったってしょうがない」からだ。未来を見据えないともったいない、人は皆「前途有望」なのだから。
でも傷はなかなか癒えないから被害者の味方にもなってあげたい……そんなジレンマは我々が心を持つ人間という生き物だから起こるのであって、答えが出ないことはわかっている。
ただ、被害者は意外と「自分について考えてくれている」という事実だけでも救われることだってあると思う。
復讐によって傷が癒えることなどありえないが、人間だからこそできる思いやりが時に解決策となる事もありえるのだ。考えすぎかもしれないが、少なくとも僕はこのチャプターからそう思わされました。
映画によって得られる「傷」
この映画をちゃんと観た方で、エンドロールが始まった途端に席を立てた人はどのくらいいるのだろうか。
僕は無理でした、頭が酸欠になって身動きできませんでした。ちなみに、キャシーが死んでからエンドロールまで一切呼吸できていませんでした。(大嘘)
そこから怒涛の地獄から地獄への大立ち回り、ピュアも正義もあったもんじゃないクールな音楽と演出。
アルの「俺、助かるんか?」という気持ちの悪い笑顔には身の毛がよだったし、チャプター5の数字の刻み方(デッドバイデイライト、コードギアスで一番可哀そうなやつのアレ)には鳥肌が立った。
とにかくこの映画はシンナーを脳に直接吹きかけられているような衝撃が次から次に来るもんだから、疲労が半端じゃない。
このとてつもない感覚をこの映画以外で摂取できるのかは不明だが、恐らく今年これから出る映画ではもう味わえないだろう。そのくらいパンチのある作品だった。決して万人に勧められるタイプではないのに、このヤバさを全員に味わってほしいと思ってしまう魅力がある。
『ヘレディタリー 継承』を観たときにも同じことを思ったのだが、鮮烈な映画体験をできたときは是非人にも同じ体験をして欲しくなるものだ。
そして是非、このような映画を観て得た「傷」はしっかりと刻んでほしい。この傷は無為なものではなく、未来に向かうための傷だから。
おわりに
ふぅ。7000文字くらい書いたのに、まだ言及したい部分が湧いてくる。
まあこれ以上書くと自分の思想の押しつけになってしまうからこの程度にしておくけど、自分の意見をちゃんと吐き出したから次はこの映画を観た人とあーでもないこーでもないと語りたくなっている。
そろそろ劇場公開も閉じられてくる頃合いだから、今から観るってなるとなかなか難しいかもしれないけど、映画ファンを自称する人ならマストウォッチですよアンタ。
さて、今作が長編デビュー作品となった監督のエメラルド・フェネルの次回作にも期待が高まるばかりである。次はどんなぶん殴り方をしてくれるんだろう……と、すっかり調教済みの犬のようになってしまった。やっぱり映画って良いものですね。
最後に言わせて。;)